弘法大師と狩場明神との出会い

弘仁6年(815)、弘法大師空海は、修禅の道場を開く地を求めて各地を巡錫しておられました。
伝承によれば、大師はかつて唐から帰国する際、「密教を広めるにふさわしい地に落ちよ」と願って三鈷杵を投げたといいます。その三鈷の落下した地を求め、大和国宇智郡、現在の奈良県五條市付近を歩いておられたときのこと、大師の前に一人の猟師が現れます。
日灼けした肌に、背丈は八尺(約2.4メートル)。弓矢を携え、青い小袖をまとい、白と黒の二匹の犬を連れた、たくましい姿の狩人であったと伝えられています。
大師が旅の目的を話すと、猟師は「私は南山の犬飼と申す。その場所なら知っている。案内しよう」と答え、二匹の犬に大師を先導させました。
二匹の犬に導かれて高野山へ
犬たちに導かれて山中を進んだ大師は、さらに一人の山人と出会います。
山人は大師に、「ここから南へ行くと平原の沢がある。そこがあなたの求めている地であろう。私はこの山の王である。この地をあなたに差し上げよう」と告げたといいます。
さらに山深く分け入ると、大師は八つの峰に囲まれた平原へと至りました。
そこに立つ一本の木に、かつて投げた三鈷杵が掛かり、光を放っているのを見つけます。大師は、長く求めてきた修禅の地がここであることを悟り、感涙にむせんだと伝えられています。
大師が山人にその素性を尋ねると、山人は自らを丹生明神(丹生都比売大神)と名乗り、先ほどの猟師こそが高野御子大神(狩場明神)であることを明かしたといいます。
この説話は『今昔物語集』などに伝えられ、高野山開創を物語る重要な伝承として今日まで語り継がれています。
高野山開創ゆかりの地として
轉法輪寺は、弘法大師が狩人の姿をした狩場明神と出会われた地に建立されたと伝えられています。
仏法を求める弘法大師と、この地を守る神である狩場明神との出会い――。そこには、仏と神とが互いに敬い、支え合う日本古来の信仰の姿を見ることができます。
当山は高野山開創ゆかりの霊場として、また大師を高野山へと導いた「導きの神」のおわす地として、長く信仰を受け継いできました。
『高野大師行状図絵』「高野尋入事」
『高野大師行状図絵』にも、弘法大師が高野山を尋ね入る場面が描かれています。
ここでは二匹の犬は白と黒ではなく、黒色の大小二犬として表されています。

五條の民の協力
弘法大師が高野山へ向かわれたこの地には、当地の地主であった川崎甚左衛門がいました。
伝承によれば、川崎甚左衛門は弘法大師の志に深く帰依し、大師と力を合わせて、弘仁7年(816)に現在の五條市犬飼町に犬飼山遍照庵を開いたとされています。
甚左衛門はのちに出家して道和法師と名乗り、遍照庵の初代住職となりました。
高野山開創へとつながる弘法大師の歩みは、神々の導きだけでなく、こうした当地の人々の協力によっても支えられていたと伝えられています。
轉法輪寺の歩み
弘仁7年(816)、弘法大師空海によって開かれたと伝わる犬飼山遍照庵には、川崎甚左衛門こと道和法師が初代住職として住しました。
その後、遍照庵は轉法輪寺と改められ、弘法大師の十大弟子である杲隣大法師が住職となりました。
仁寿3年(853)、隣全法師の代に犬飼山遍照院轉法輪寺と称するようになったと伝えられています。
長い歴史の中では火災にも見舞われ、第30代住職・権大僧都実常の代には、弘法大師ゆかりの遺物の多くが焼失しました。
その後、永正2年(1505)に本堂と庫裡を再建。万治2年(1659)には大師堂および丹生・狩場両明神の神殿が再建されました。
さらに時代を経て、大阿闍梨立弁の代に現在の本堂が建立され、昭和年間、桑山聖規の代に護摩堂・地蔵堂・大教堂などが整備されました。
こうして轉法輪寺は、弘法大師と高野山開創ゆかりの霊場として、また地域の人々の信仰の場として、今日までその法灯を受け継いでいます。

